振り返ってはならない、

煉炭 約1868字

初出 2022/11/23

「振り返ってはならない、」

優しいのは貴方です。死の間際にあってもなお、人のためにあろうとした貴方の言葉に、どれだけ自分は救われただろうか。その言葉が、どれほど自分を導いてくれただろうか。
震える唇からこぼれ落ちる言葉、そのひとつひとつを、正しく両手のひらにおさめる。熱さと、強さと、揺るぎない信念がここにある。
目を上げる僅かな一瞬の間に、貴方は遠い彼岸の向こうへと行ってしまう。ぼたりと落ちた雫は、赤い地面に吸われて消える――名を紡いでも応えのない事実を咀嚼するには、あまりにも短い時間だった。

刃を振るい、心を奮わせ、前へ前へと進むしかない日々は、貴方の喪失を忘れさせてなどくれなかった。胸に抱いた炎の形は、静かにこの胸を押し、背中を押す。
胸を張って生きろ――
繰り返し響く貴方の声が、一度だけ触れた貴方の指先が、たったの一夜だけ過ごした時間が、決して俺を後ろ向きにさせない。
強い強い貴方に、弱い弱い自分は、何度打ちのめされようとも前を向くしかなくて。振り返ろうとするこの背中を、貴方はずっと押し続けてくれるから――だからこうして、生きていけるのだと思う。

そうして、俺はひたすらに走り抜いては、悲願を果たして平和の世を、取り戻す。失われた命も多いが、妹は人に戻り、守るべき人々は正しく守ることができた。
やっと、やっと俺は走り続けることを止められる。
そう思うのに、前を向けという貴方の言葉はまるで呪いのようだ。ちっとも、貴方を振り返らせてくれない。
近頃、もう、貴方がどんな声をしていたのかも忘れてしまった。片腕だけで、貴方の炎を纏った刀を抱き寄せる。耳をすませても、当たり前のように木の葉のさざめきが自分を囲うだけ。鳴らした鼻も、家の匂いと、山のぬくもりしか嗅ぎとることしかできなくて。
ぼたりと落ちた雫が、地面に染み込むようにして、虚しさを形作る。
「煉獄さん……」
そよぐ風に混じって、声でも響いたら良いのにと願うけれども、それは叶うことはない。

いよいよ、命の終焉が訪れる。悔いはないと笑う俺に、涙する妹や仲間の顔が見える。痣者の宿命が故に、早世することはわかっていたから、不思議と怖くはなかった。枕元に、刀を置いてもらって、俺は静かに、確かに、この世を去った。

過ぎ去りし日々を懐かしむ道々で、懐かしい人々に出会い、確実なる死を迎えたことを知る。死者は皆、濃霧の中、ただ真っ直ぐで先の見えない道の向こうへと歩き続ける。その向こうに何があるのかを知らず、ただ歩くしかないこの行程は、どこか生者であった自分を思い起こさせた。
前を向けと、そんな声がした気がして、抗うように振り返る。
灰褐色の景色の向こうに、一際眩い光がちらついた。
たまらず、走った。
死者の行進から外れた、沼のような、ひどく走り難い道を駆け抜けて、貴方の言葉のままに前を向いて走り抜けた。
泥沼から這い出た場所は、目が眩むほどに眩しい場所であった。けれどあまりにも眩しくて、俺は瞼を開けることができなかった。
胸を張って生きろ――
声がした、忘れていた声がした。あちこちに手を差し伸ばしてはみるのに、指先は虚空を掴むばかりで何も掴めない。
煉獄さんと呼んだ。煉獄さんと、呼んだ。
もうそれに応える声はなくて、滂沱のような涙があふれて落ちて、光の中に吸い込まれていった。

死者が進むべき道を進み、等しく与えられた来世への道を、運ばれていくようにして流れていく。結局のところ、そうするしか術はないのだろう、常世でも、あの世であっても。一歩進めば二歩進み、二歩進んだらその先に向かうしかない。
振り返ることはできない、進むべき道から逸れてしまうから。
振り返ることはできない、道から逸れても貴方に会うことはできないから。

進んだ先に、貴方はいるだろうか。
進んだ道に、貴方は待っていてくれるだろうか。
不安でたまらない気持ちを押し込めるようにして、ぎゅうと胸を鷲掴んだ――硬いものに指が触れた。それは驚くほどに熱く、燐光すら放って俺の掌の中に形を成した。
燃え盛る炎の軌跡が宵闇を切り裂いた、あの瞬間の貴方が、消えてしまいそうな俺の意識の中で再び輝いた。それは瞼を焼かなかった、指先に確かに触れた。僅かに香るのは、忘却の彼方に置いてきてしまった貴方の生者としての匂い。
伝う涙はもう、地面に吸い込まれていくことはない。貴方が残した心の炎に降り注いでは、光り輝き、迷い人の俺を導いてくれるから。
燃え盛る炎を抱いて、足を踏み出す。心の中では泣いても――。

 

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